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僕は人間が嫌い。
僕の「人間」は、地球に居る人間すべてを呼ぶときに使う。
僕の「人」は、それ以外の人間を呼ぶときに使う。
例を挙げるなら...
- 他人は人間
- クラスメイトも人間
- 友達、友人はたぶん人
- 大切な人は人
- 好きな人も人
僕は、誠実さのない人間が嫌い。
もちろん、僕にも誠実でない部分は山ほどある。
道に落ちているゴミを拾わなかったこともあるし、草むらにガムを捨てたこともある。
思春期のころは視線を制御できなかったし、相手のことを考えることもできていなかった。
それでも最近は誠実に生きることを意識して生きている。
周りを見渡している外国人が居たら携帯を触るのをやめてぼーっとしているように見せる。
そうすると話しかけやすいだろうから。
白杖を持った人のそばに行ったときはイヤホンを外す。
その人にとっては聴覚がすべてだから。
ほんの少し何かをするだけで、僕の中から罪悪感が消えていく。
正確に言うなら、抱く罪悪感の数が減る。
僕は罪の意識が強い。
周りは「そんなこともう誰も気にしてないし覚えてもないよ」と言われても、僕から罪の意識が消えることはない。
- 小学6年生のころのできごと
- 中学3年生の廊下でのできごと
- バイトでのできごと
ふとしたときに思い出して、謝罪したくなる。
本当はそういうものを忘れたり、受け入れたりして人間と関わりたいのだけれどね。
このようなこともあって、僕は誠実とは言えない。
自分の誠実さを強く意識しているからか、他人の誠実さにも敏感になっている。
- 自分の立場や利益を守るために嘘を言う人間
- 他人の悪口を言う人間
- 困っている人を無視する人間
- 相手のことを考えられない人間
- 物事を多角的に見たり、正しく捉えられない人間
そういう人間が嫌い。
昔から、そういう人間が周りに多かった。
親も、親戚も、クラスメイトも、部活の人も、先生も、大人も。
だから僕は人間が嫌いになった。
元から強くあった悲観的な価値観とも相まって、「どうしてこんな人たちと良い関係を築こうと努力しなければならないのだろうか」と思っていた。
小説が好きになったのもそういう背景がある。
現実では許されないことも、空想の世界なら許される。
現実でできなかったことも、空想の世界ならできる。
嫌な人間が存在しない、美しく綺麗な世界を描ける。
現実から逃げるために、現実を生きる自分を支えるために小説を書き始めた。
僕は人間が嫌いだ。
でも僕は人が好きなんだ。
僕は昔から「狭く深く」の人間関係が好きだった。
自分のことを深く知っている人は少しだけ、薄っぺらい上辺だけの付き合いもせず、0か100かの人間関係を築いてきた。
それを後悔したことはないけれど、勘違いされることも多かった。
父親は僕にこう言ったことがある。
「お前は俺と同じで一匹狼タイプだから(友達が少ないのは)仕方ないのかもしれないけど、友達は持っといた方が何かと良いぞ」
好んでひとりになっているわけじゃないのに。
それと友達は持つものじゃない。
僕は人間が嫌いなのに、ひとりは好きじゃない。
僕は人が好きなんだと思う。
「好きになれる人が居ないだけ」で「好きになれる人が居るなら好きになる」
そういう人に囲まれて生きられるなら迷わずそこに飛び込む。
たまに一人の時間がないと充電が切れてしまうけれど、充電を使ってでも僕は好きな人たちとお話したい。
朝起きて友達と会うときは100%あるけれど、夕方になってさよならを言う頃には5%くらいになっている。
それでも好きな人には会いに行きたい。
インターネットを見ていると、「他人を愛すことができる人」をよく見かける。
一番わかり易いのは、韓国のLE SSELAFIMというアイドルグループ。
末っ子のウンチェという子が、本当に愛されている。
LE SSELAFIMを知らない人でも、日本語訳された動画を1~2本見れば、彼女がどれだけ愛されているかが分かると思う。
あれほど溺愛してくれなくても良いから、「愛されてるなぁ」と感じられるくらいには愛されてみたかった。
愛される方法も愛す方法も分からないし、何が愛なのかも分からないから難しいのかもしれないれどね。
そんな感じ。