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2023年10月24日

秋の匂いがしたかと思えばもう冬の顔が覗き始めている今日このごろ、相も変わらず僕の精神はおかしなままだが、久しぶりに文章を書く気になったので書いてみている。

最近は睡眠薬を飲み始めた影響で二十四時間に二回眠ることになっている。日付が変わるころに薬を飲み午前一時ごろには眠っている。二~三時間すると目が覚め、そこから六時間~九時間ほど起きてまた眠る。夕方に起きてまた日付と共に眠りにつく。目覚めは異常なほどスッキリしていて、寝起きすぐには眠くならない。ただ体が動かせないのは変わっていないため、起きてもしばらくの間は横になっている。

睡眠薬はデエビゴ5mgという不眠症治療薬を服用しているが、たぶん僕の体には合っていないように感じる。この薬を飲むようになってからというもの、中途覚醒が100%起きており、一回の睡眠で四時間以上眠ることが無くなった。それでも上記の通り二四時間に二回眠ることで一日七時間以上の睡眠は取れており、睡眠不足だとは感じられない。集中力や注意力の低下は前と変わらず、小説の読み書きや映画やドラマを見ることは未だできないままでいる。とはいえ少しの間過集中のような状態になることは稀にあるため、そのときに他人が書いた文章を読んだり、思考を巡らせるなどしている。

最近はブラックホールについての動画をyoutubeで見漁り、空想した。出した結論はブラックホールは三次元空間の穴であり、三次元空間の穴に落ちた物は四次元空間にて観測されるという、酷くつまらないものになった。線に穴を開け、線から線を落とすと平面にて観測される。平面に穴を開け、平面から平面を落とすと空間にて観測される。それが次元ごとに繋がっているだけの話なのだろうと考えた。左から右に進むタイプのマリオブラザーズでは、マリオは前後と上下しか把握していない。そこで奥に向かって穴を開けても、彼はそこを通れないという事実しか知ることができない。便宜上、「ドア」は奥に向かって進むよう描かれているが、基本的に奥行きの存在しないゲームであることには変わりない。最近のマリオのように三人称視点で進むタイプのゲームには奥行きが存在するため、奥に向かって穴を開けるとそちらに向かって進むことができ、基本的に前後左右の四方と上下に進むことができる。下向きに穴を開ければ重力に従って落ちていくことができるし、前や横向きに穴を開ければドアのように通り抜けることができる。ブラックホールはジェットと呼ばれる物質を光速近くの速さで噴出しているものがある。これは三次元未満での見えないエネルギーが落ちた物に押し出されたものだと考えている。二次元のマリオブラザーズでも「空気」の存在はあるため、奥に向かって穴を開け、そこに物が落ちれば空気が押し出される。その空気が現実世界でいうダークマターやダークエネルギーであり、それらを観測できない人類はジェットによって「物質」だけを観測できているのではないかと考えている。ブラックホールに関するこの考え方もただの一説でしかなく、僕も大した知識があるわけではないため空想の域を超えられないが、このようなことを空想するのはとても楽しい。

心療内科に掛かってもう少しで七ヶ月が経つわけだが、色々と変わったことがある。自身の精神に関することはもちろん、環境的なものも大きく変わっている。最近、気分が良くないのは親の対応が変わったことだ。

言い切ってしまうが、親は僕と向き合ったことがない。いつも「親」という立場を崩さず、もし崩したとき命が刈り取られれてしまうかの如く頑なにその立場を揺るがそうとはしなかった。従って、同じ目線で話をすることは一度もなく、僕は立場の差をただ押し付けられ続けるだけであった。僕は反抗期がなかった。反抗しなかった理由は「反抗しても無駄だと分かっていたから」で、反抗することに意味があるのなら思う存分に反抗しただろう。少し前にインターネットでこのような文章を見かけた。「反抗期は親と対等な立場になろうとする子供が親に訴える手段のひとつであり、親はその反抗を否定せず受け入れ、一人の大人だと認める必要がある」僕の親は昔から僕を子供として扱わなかった。自分でできることは自分でさせたし、大人になってできるべきものは子供のうちからできるように教えられた。しかしそれは外向きの部分だけの話で、内面では僕が何歳になっても一人の人間として認めることはなかった。意見は我儘だと否定され、行動は間違いだと否定され、「あくまでお前は俺の子供だ」と親>子供の力関係を崩さなかった。それは今でも変わっておらず、親が使う言葉や態度の中にそれが見え隠れしている。父親は特に、大義名分が好きだった。「躾」と謳って躾できたのは「礼儀」だけで、その他はなにも僕に残さなかったように思う。暴力という恐怖と痛みで子供を支配した結果、僕はそれに怯えるだけの人間になり、本来解決すべき問題は気にする余裕もなくなった。父親を激高させないために幼いうちから親の顔を見て感情や思考を読み取ろうと努力した結果、人間観察が趣味になり、人が使う言葉にどれだけ嘘が含まれているかを凝視するようになった。親の使う嘘が手に取るように分かると、すべてが無意味に感じ、訴えることを辞めた。これは特技でもなんでもなく、弱者ができるだけ致命傷を避けつつなんとか生きるための手段に過ぎないのだと、最近になって分かってきた。僕は親が途轍もなく嫌いだ。これはもう周知の事実だろう。地元に帰るときは親に連絡をせず顔も出さない。ホテルや友人の家に泊まり実家の近くは通らず、できるだけ周りの大人たちにも会わないようにしている。いずれは電話番号や住所も名前すらも変えて、「本間謙信」という人物を無かったことにしたいとまで思っている。親不孝と言われるかもしれないがそんなことは知らない。僕が心療内科に掛かってから親に話をしたとき、父親からこのような文章が送られてきた。『親父は嫌われてナンボだと思ってるから嫌われるのはいいが、親父として失格かもしれん。だがこれだけは理解してくれ。お前は愛されて生まれてきた。お前のおかげで俺は親父になれたし、俺の糞みたいな人生に頑張る理由ができた。お前が俺を嫌いでも、俺はお前の味方だ。』『俺が超絶適当な生き方選んだ理由は自分を守るためだった。』先ず一つめ、「仕方なく嫌われること」と「嫌われにいくこと」は別である。父親は間違いなく後者であった。二つめ、子供を愛することなど当たり前のことで、わざわざ親が子供に訴える必要もない。三つめ、僕は「親から愛されている」と感じたことは一度もない。親の愛は意味を為さなかった。四つめ、子供を自らの幸福の道具にするなゴミが。あなたたちが幸せを掴むために僕を作ったわけで、僕が産まれたくて産まれてきたわけではない。それは誰でもそうだ。もし産まれたくて産まれたのなら、確実に、もっと素敵な人のもとを選んでいる。父親だってそうだろう。ネグレクトするような人間のもとを選んで産まれる馬鹿はいない。自我を持ち、気がついたらこの世界に産まれていて、生きることを強要され始めただけである。それと比べ親の方は違う。どういうわけが産まれてしまったが、死なずに生き続けるという選択を自らの意思で選択し、その後も自らの意思で選択し続けた結果が今になっている。「産みたくて産んだわけではない」という言い訳は御門違いにも程がある。五つめ、『僕の味方』ならなぜ僕が死にたくなる理由の一つ目にあんたがいるんだ。一番頼りたくない関わりたくない人間があんたなのは何故だ。軽く綺麗事ばかり並べやがって。六つめ、「お前」と呼ぶな。七つめ、適当な生き方を選んだ人間が親になったら子供が不幸になることくらい分からなかったのか。あんたは愛すべき人のことすら守れていない、それどころか殺している。父親は何かあるとよくこう言った。「産んでくれたことに感謝しろ」「育ててくれていることに感謝しろ」「誰のおかげで生きれてると思ってんだ」「お前も大人になったら親のありがたみがわかる」それと同時に、「お前なんか産まなきゃよかった」「生きてる意味ないからさっさと消えろ」「二度と俺の前に現れるな」「そのまま死ね」とも言った。その他にも決して言ってはならないことばかりで、書きたくもない人格否定や存在否定が続いていく。産んだのはあなたたちの選択であって僕が感謝すべきことではない。上記の通り、気がついたら産まれていただけだ。子供を産んだら育てるのが義務だ。親の立場でその言葉を言うのはとんだ御門違いである。そして衣食住を提供し義務教育を受けさせたら他は何しても良いということにはならない。数え切れないほどの殴る蹴る投げると言った暴力や罵倒、感情を失うほどの人格や存在の否定、厳しすぎる束縛、脅迫、誘導尋問、それらを永遠と繰り返すような人間に、感謝など必要ない。これは僕の持論だが、親のありがたみはお金のありがたみだと思っている。親がいなくても金さえあれば生きていけてしまうのがこの世界だ。衣食住にお金が必要ないのなら、それを稼ぐ親の存在も必要ない。ここが日本でなく、紛争や飢餓が当たり前の国に産まれたのなら、親の存在などどうでもよくなってしまう。確かにお金を稼ぐのは大変だが、子供にお金がかかることなど子供が生まれる遥か前から分かりきっていることであって、大人にならなくても分かる。力関係が絶対に覆らない事実を言い並べて何になると言うのだ。馬鹿なのか。だから嫌いなんだ。

心療内科に掛かってからというもの、僕は親に対して「死を人質にして生きている」ように感じる。医者に掛からなければ2ヶ月以内に自殺するつもりだったということと、躁転すると衝動的に自殺する可能性があるということは話している。それを聞いたあとの親は明らかに優しくなっている。とても気持ちが悪い。これだけ散々僕を蔑ろにしてきておいて、いざ死にそうだとなったら手のひらを返すんだから笑えてしまう。僕に死ねと言ったのは誰だ。僕が少しでも自殺を匂わせば急に優しくなる。気持ちが悪いから辞めてほしい、いっそのこと「そのまま死ね」とあの頃みたいに罵ってくれればいいのに。そういうところが嫌いなんだ。人間の浅はかさが目に見えてくる。

これほどまでに親が嫌いな僕だが、親を好きになろうと努力したこともある。思いつく限りの不遇さに同情し、許し受け入れ、愛してみようとしたこともある。でも試みるたびに昔の出来事がフラッシュバックしてきて拒絶反応が出てしまう。僕はまだこの人たちを許せないのだと、自分の未熟さが嫌になる。友人を見ていると複雑な気持ちになる。当たり前のように親と仲良くしていたり、実家の話をしているのを見聞きしていると、そうしていない自分が変に思えてくるし、友人が羨ましくなる。いつでも帰りたいと思える場所、帰れる場所があることはとても幸福なことで、守るべきものだ。僕には帰ることのできる場所がない。最近はそれを渇望している。僕も何処かに帰ってみたい。他人と繋がろうとするようになったのも、そのようなことが影響しているのかもしれない。他人に甘える方法は知らないが、少しの安心が欲しい。少しでいい、数秒で消えるものでいい、人間の温かさを感じたい。ハグのひとつでも、心からの言葉でも、頭をひと撫でするのでも良い。今の僕ではその形のままは受け取れないだろうが、記憶の中で縛り付けて忘れないように何度も思い返す。

親に関して考えていたら精神が壊れていた。昨日は酷い一日だった。いつかこんなことにならず、平穏に静謐な日々を過ごせるようになりたい。そのためにもっと強くなりたい。

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