その他

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親戚の葬式に出席したときのことを思い出していた。
二回ほど顔を合わせた黒色のスーツを着て、硬い靴を履き、ネクタイを締め、葬儀場に足を運ぶ。
葬儀場には独特なにおいが香り、逃げることのできない空間に閉じ込められる不自由さが僕を襲った。
この場にいる全員が同じ黒色の服を着て、まるで元気のない操り人形のように少し俯くように席に座っている。
式が始まれば僧侶が読み上げを始め、席には台車に乗った香炉が回され、同じ動作で焼香を進め、次の人に台車を回す。
一定の速度で鳴る木魚と僧侶の低い声が響くだけの空間で一時間ほど座っている。
故人の顔しか知らないような人間がこの空間に何人いるのだろう。
名前も思い出せない、辛うじて苗字は分かるが、それが分かったところで何になると言うのだろう。
死んだ人間にこのような儀式をして、何になると言うのだろう。
魂が抜き取られてしまいそうな空間でひたすら関係のないことを考えて過ごした。
それと同時に、この儀式に価値を見い出せない自分は人間社会から除外されるべき人間なのかとも考えた。

高校生になるまでは活力があったため、鬱だとは自覚していませんでしたし、僕は鬱とは無縁の人間だとさえ思っていました。
しかし後から思い返すと、小中学生の頃の出来事から鬱が始まっており、価値観の定着に大きく影響していることは間違いがないと思っています。

僕の鬱の始まりは小学五年生のころです。
少しだけ変わった環境に適応できず、僕は集団における底辺に属し、それが五年間続きました。
自分の過去を否定され、存在を否定され、言動を否定され、未来を否定され、今この瞬間も否定される。
当時の僕には何が変わったのかが分かりませんでした。思っていることを言葉に変換して伝えることができなかった当時の僕には、届くことのない手紙を書き続けているようだったでしょう。
少しして僕は、人間に興味を失いました。
唯一興味があったのは何故かよく目が合う女の子だけで、それも長くは続きませんでした。
辞めたくて仕方なかった空手を辞め、まだ好きだったアイスホッケーを続けることにしましたが、それが良い結果を生むことはなく、トラウマだけが増えていき、僕は制服を着る歳になりました。

中学一年生の頃の記憶はほとんど思い出せません。何をして生きていたのかすら分かりません。
中学二年生と三年生は、人生で一番輝いていた時期でした。
部活では相も変わらず底辺を舐めていましたが、学校生活はとても充実していたように思います。
それでも部活が僕の精神に及ぼした影響は大きく、朝起きて「今日も死んでいなかった」と絶望する毎日を送るようになっていきました。
自殺しなかった唯一の理由は、仲良くしてくれている友人と別れたくなかったことだけです。
「来年も行こうね」という言葉を疑わずに済んだのは大きな幸せでした。
どれだけ否定されようとも、友人たちを思い浮かべると耐えることができ、誰にも理解されない痛みを抱えて走り続けることも、父親に怒鳴られ侮辱され殴り蹴られることも、大勢の前で可哀想な人間を演じることも、大丈夫な気がしていました。
しかしそれは、後の僕を蝕むガン細胞のひとつとなり、いずれ全身に転移まですることになります。
手すら繋げない恋人も支えのひとつではありましたが、友人たちとは比べ物にはなりませんでした。
自分の存在を認めてくれる人がいない中で生きることはとても大変で辛い日々でした。
毎日、恐怖と不安が僕を襲い、それらを加速させる環境に自ら足を運び、怪我を治してくれる人もいない中でもがき続けるのです。
そんな僕を現実世界から引き離し、空想の世界に連れ出してくれたのが小説で、友人と対になる形で僕を支えてくれる存在になりました。
現実に存在した人間が存在しない世界を知って嬉しくなりましたが、同時に悲しくもなりました。
明らかに恵まれているはずの環境にいる人間が、何故「死にたい」などと思わなければならないのでしょう。
顔に飛んでくる父親の拳を避けることなど容易いことなのに、敢えて避けずに父親の気が収まるのを待つ子どもがどこにいるのでしょう。
車のエンジン音に怯え、家に帰ってきた瞬間蹴り飛ばされる。
床に飛び落ちたほこりが付いたご飯を拾って食べる。
何に泣いているのかすら分からない状態で、それでもなお殴られる。
歪んだ視界に映る顔に迫ってくる拳が、とても長い間視界に捉えられていたように感じました。
実際は一秒もしないうちに僕の頭は後ろに飛び、体は倒れ、髪や腕を掴まれ、三秒後にはまた同じように立っています。
もはや痛みなど気にもなりませんでした。
この人間の怒りが収まる方法を考え、無抵抗で殴られ続けました。
そんな日常を送るようになってこう思うようになります。
生きていることに意味なんてない。
人は誰かのサンドバックであり、僕は殴られる側の人間だったのだと。
それ以降僕には、不幸が似合うとさえ思うようになっていきます。
前記のように、友人がいなければ僕は中学生のうちに自殺していたでしょう。

高校生になり、鬱が本格化し始めます。
夜は三時間ほどで目が覚めるようになってしまい、学校から帰ってくると一時間ほど気絶するのを繰り返していました。
泥で汚れたバスの窓ガラスを見て綺麗だと思ったり、いじめに関するニュースを見て親近感を感じたり、誰かが自殺したニュースを聞いてホッとした気持ちになったりするようになります。
学校がない日は家から出るどころかベッドから起き上がることも嫌になり、一日中寝ていることも増えました。
なんとか学校には通いますが、高校二年生の頃に限界を迎え中退します。
高校三年生は通信高校に通いました。
学校に行かない日はずっと家にいました。
活力がなくなっていき、稀に活動的になる日を除いてほとんど引きこもり状態になります。
双極性障害の軽躁状態がはっきりとあり、一年に何日かはとても活発的になることがありました。
この頃も希死念慮はありましたが、写真を趣味にしたり心理学を勉強したりして毎日を濁して過ごしていました。

高校を卒業して十九歳になりましたがコロナが流行ります。
僕は数ヶ月間、家から一歩も出ないこともあるくらい鬱が酷くなっていきます。
このときすでに自分が鬱を患っていることは自覚していましたが、僕一人ではどうしようもありませんでした。
親は精神病に理解がないので相談することもせず、半年間バイトをしたあとは家でゆっくりするようになります。

二十歳の歳の九月に札幌で一人暮らしを始めました。
親から離れて鬱をどうにかすることを目的としていました。
しかし一人暮らしが上手く行ったのは一年ほどで、鬱は酷くなっていくばかりでした。
今年の冬は鬱が酷く、ベッドから起き上がることもできませんでした。
両手両足だけでなく、頭やお腹にも鎖が繋がれているようでした。
部屋はゴミと洗濯物で汚れていき、料理もしなくなり、出前ばかりを使うようになります。
色々なことへの興味も喪失し、ゲームはやらなくなり、ギターも弾かなくなり、小説も読まなくなり書くこともなくなりました。
一日中かけていた音楽もかけなくなり、無音の空間でぼーっとするだけの日々を過ごします。
食欲も性欲も睡眠欲もなくなり、すべてがどうでも良くなっていきます。
そして三月、生きることに限界を迎え、自殺するための道具を買い揃えました。
冬服を捨て、食器を捨て、調味料も捨て、遺書を書き始めます。
誰かに「助けて」とも連絡できず、インスタグラムのストーリーだけが頼りでした。
これで誰からも連絡が来なければ自殺することにしよう。
三月の最後の週にそう決め、インスタグラムのストーリーを更新していました。
友人から連絡が来たのは二十七日、心療内科にかかったのは三十日、それから徐々に、改善していきました。
心療内科にかかったことを親に話しました。
事を聞いた父親からは「ウケるな」というつぶやきがあり、僕はその一言で今までの環境の異常さを自覚し、確信し、二度とこの人間に自分のことを話さないと決めました。

薬を飲み始めてからの僕はまるで別人のようでした。
精神は健全に近づいていき、小学生の頃からの不安感もなくなり、考え込むことがなくなりました。
抗うつ薬により鬱症状も改善され、希死念慮は残っているものの自殺を計画することはなくなりました。
活力はそう簡単には戻りませんが、三月に一割だったとすれば、今は三割くらいまでは回復していると思います。
鬱の反対は幸せではなく活力だと言いますが、その通りだと思っています。
鬱になると活力がなくなり、興味も失われていきます。
「何かしよう」という気にすらならなくなるのです。

まとめ方が分からなくなったので終わり。

今更ではありますが、助けてください。
ただ話すだけでいいので。
ストーリーにハートで反応するとか、酔ったときにダル絡みしてくるとか、会う約束をするとか、そういうので良いので、少しだけ僕に関わってください。
鬱とか双極性障害とかは友人たちがどうにかできるものではないので、ただ僕と関わってくれると、とてもありがたいです。

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